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カルミネ・アバーテ『偉大なる時のモザイク』訳者あとがき
言葉と時のモザイク
長靴の半島の爪先に位置するカラブリア州や、海峡を挟んで向かいにあるシチリア州をはじめとして、南イタリアの諸州には「アルバレシュ(arbëresh)」と呼ばれるアルバニア系住民の共同体が点在している。これらの土地では現在も、古アルバニア語に近い「アルバレシュ語」という言語が話され、独自の文化・習俗が保たれている。十五世紀の初めから十八世紀後半までの期間に、オスマン帝政下のアルバニア(当時は「アルベリア(Arbëria)」と呼ばれていた)からイタリアへ逃れてきたキリスト教徒が、今日のアルバレシュの祖先にあたる。本書『偉大なる時のモザイク(Il mosaico del tempo grande, Mondadori, Milano, 2006)』の作者は、そうしたアルバレシュ共同体の出身者である。 1一九九一年刊行の長篇第一作『円舞(Il ballo tondo)』を皮切りに、カルミネ・アバーテ(一九五四~)はこれまで合計九作の長篇を著してきた。そのうち、『偉大なる時のモザイク』(以下、『モザイク』と表記する)を含むじつに五篇が、架空のアルバレシュ共同体「ホラ」を舞台にしている。アルバニアからの逃亡者たちの手で十五世紀末に創建されたというこの村が、作者の生まれ故郷カルフィッツィ(カラブリア州クロトーネ県)をモデルにしていることは疑いを容れない。2
一七七四年の大規模な移住を最後に、アルバニアからイタリアへの逃亡者の流入は途絶えていた。ところが二〇世紀末、アルバレシュの祖先の経験をなぞるようにして、大量のアルバニア人がイタリアを目指し海を渡った。社会主義体制下の圧政や貧困に耐えかねた人びとが、自由を求めて故郷の土地を後にしたのである。一九九〇年七月にアルバニアの首都ティラナで勃発した「大使館への駆け込み」や、一九九一年八月に南伊バーリのスタジアムで起きた「ヘリコプターからのパンのばら撒き」など、アルバニア人やイタリア人にとっていまだ記憶に新しい史実が、本書『モザイク』のなかでも言及されている。
「どうして人は、生まれ故郷から逃げださなければならないのか。どうして人は、旅立ちを強いられるのか」(本書二八〇頁)。作中でアントニオ・ダミスが口にするこの言葉は、アバーテの執筆活動の根底にある問いかけである。作家自身、南伊プーリア州のバーリ大学を卒業したのち、若くしてドイツに移住している。一九八四年に発表されたドイツ語による短編集『鞄を閉めて、行け!(Den Koffer und weg!)』には、移民として生きる痛みと苦しみが、飾りのない乾いた文体で綴られている。
アバーテの多くの作品、とりわけ本書『モザイク』では、世代を越えて繰り返される移住の営みが、物語を支える骨格になっている。「ゴヤーリ」ことアルディアン・ダミサは、「ひとつめのホラ」からイタリアのホラへ移住することで、五〇〇年前の祖先の逃走を身をもって再現している。「ひとつめのホラ」を夢見つづけたアントニオ・ダミスは、アルバニアの踊り子ドリタを連れてオランダへと移住する。作品の結末では、ミケーレ青年のホラからの旅立ちが予告されている。時代も目的地も異なるさまざまな移住が、ホラという小さな共同体の上で交錯する。
二〇一二年に刊行された『ホラの季節(Le stagioni di Hora)』は、『円舞』、『スカンデルベグのバイク(La moto di Scanderbeg)』、『モザイク』の三作を一冊にまとめた作品集である。「ホラ三部作」とでも呼ぶべきこれらの作品においては、アルバニアの民族的英雄スカンデルベグが重要な役割を果たしている。3『モザイク』の中心人物アントニオ・ダミスは、物語の始めから終わりまで、「風の影」につきまとわれ苦しみつづける。アバーテの故郷で語り継がれてきたアルバレシュの伝承では、「偉大なる時」を生きたスカンデルベグもまた、死を前にして風の影の声を聞いたとされる。
ある朝、スカンデルベグは最後の戦いに臨んだ。黒い運命にたいする戦いだった。それは風の影だった。胸に心を宿していない、「死」という名前の敵だった。お前の生は終わった。死は彼にそう告げた。(『円舞』より)4
空は黒々とした雲に覆われていた。遠くを見つめる彼の瞳のようだった。この日、「偉大なる時」を生きるスカンデルベグは、青白い顔で馬を走らせていた。青白く、病んだ顔で、最後の戦いに向かっていた。彼は黒い声を聞いた。 「戻れ、スカンデルベグ、引き返すのだ」 「お前は誰だ? お前はどこからやってきた?」 「わたしの名は死だ。お前の生は終わった」 「俺が死ぬとどうして分かる? 胸に心を宿していない、人を怯えさせるばかりの風の影よ」(『スカンデルベグのバイク』より)5
風の影とスカンデルベグの邂逅は、祖母の歌う民謡を通して、幼い子供だったころのアバーテが慣れ親しんでいた物語である。モザイク作家のゴヤーリは、作品の終盤でミケーレとラウラにこんなことを言っている「物語は、俺たちの内側や俺たちのまわりに、はじめから存在している。俺はただ、木から果実をもぎとるように、物語を集めるだけさ。そして、物語ができるかぎり長持ちするよう、モザイクの姿に留めるんだ」(本書二五二頁)。これはあたかも、アバーテの創作態度について語ったような言葉である。過去の世代と物語を共有し、未来の世代に物語を伝えるために、アバーテはそれを小説の形に留めようとする。「ここは風の丘だ……良きにつけ悪しきにつけ、われわれは風の丘を選んだのだ」(本書七七頁)。はじまりのパパスであるヅィミトリ・ダミスは、ホラの村人を前にしてこう語っていた。パパスの言葉から、昨年に邦訳が刊行されたアバーテの代表作『風の丘(La collina del vento)』(関口英子訳、新潮社)を思い出した読者も少なくないだろう。「風」はアバーテが好んで取り上げるモチーフのひとつである。本書『モザイク』においては、ある登場人物の名前のなかに、風を連想させる仕掛けが潜んでいる。金色の髪の娘、ラウラである。
イタリア文学史を代表する詩人として誰より先に名前を挙げられるのが、一四世紀のフィレンツェに生を受けたフランチェスコ・ペトラルカ(一三〇四~一三七四)である。その後の西欧の文学に巨大な影響を与えた詩集『カンツォニエーレ』は、永遠の恋人ラウラにたいする詩人の思慕を歌った作品である。『カンツォニエーレ』を日本語に訳した池田廉は、ラウラ(Laura)という名前が喚起するイメージについて次のように解説している。
ラウラという名前はじつに美しい響きを持つ。そしてこの名から、小石が池に波紋を呼ぶように、豊かな連想の環が広がる。恋人のラウラ(l’aura)は微風であり、ラウロ(lauro)=「月桂樹」であり、またアウレオ(aureo)=「黄金の」とも結びつく。それらがさらに連想の環となって、「ゼフィロス(西風)」、あるいは「桂冠」、そして「金髪」や「太陽」というふうに波紋を広げる。6
「ラウラ」には、微風を意味する「アウラ」というイタリア語が紛れこんでいる。そればかりかこの名前は、形容詞「アウレオ」との響きの類似により、金髪の女性のイメージを想起させる。『モザイク』に話を戻せば、ミケーレ青年の心を最初に捉えたのも、ラウラの金色の髪だった。「風にたなびく金色の長い髪が、はちみつの滝のように見えた。昼下がりの陽光が、腹を空かせた蜜蜂のごとくに、金色の髪に群がっていた。あのとき僕は、彼女の髪から目をそらすことができなかった」(本書三七頁)。もちろん、『モザイク』において「スカンデルベグの黄金の短剣」が果たしていた役割も忘れてはならない。ラウラの名前は、「風」と「黄金」という、物語の二つの重要なモチーフと結びついている。「黄金」とかかわりのある名前を持った人物はもうひとりいる。モザイク作家ゴヤーリである。作中でも説明されているとおり、アルディアン・ダミサのあだ名「ゴヤーリ」は「金の口」を意味している。犬歯に金がかぶせてあること、そしてなにより、その口から黄金のように貴重な物語が流れ出ることが、このあだ名の由来である。
ラウラの母であり、アントニオ・ダミスの妻である女性の名前にも、ひとつの仕掛けが施されている。「ドリタ(Drita)」とは、アルバニア語で「光」を指す言葉である。アントニオ・ダミスは「光」の傍らで生きながら、最後まで「風の影」を振り払えなかった。光とともに生きる道を選んだからこそ、影と手を切る望みも失ったということなのか。物語の終わり近く、ドリタはアントニオ・ダミスが寝ているはずの寝室に入っていく。部屋は闇に包まれ、なんの音も聞こえない。そこで、「光」という名前の彼女が、寝室に明かりをともす。こうしてドリタは、「ビザンチンの聖人の光背」と向き合うことになる(なお、「光背(aureola)」という言葉にも、「黄金の」を意味する形容詞「アウレオ」が身を隠している)。アントニオ・ダミスにもっとも近しい人物たちのまわりには、風、光(=影)、黄金といった、『モザイク』の物語の根幹を形づくるイメージが浮遊しているのである。
『モザイク』には、ドリタとアントニオ・ダミス、ラウラとミケーレ、エレオノーラ(美しきロッサニーザ)とジャンバッティスタ・ダミスのあいだに生まれた、世代の異なる三つの恋が描かれている。これらの恋にはひとつの共通点がある。いずれの場合も、恋人たちが別々の土地に出自を持つという点である。血の「混淆」は、アバーテの作品に一貫して認められる要素である。『風の丘』では、カラブリアの小村スピッラーチェに生まれたミケランジェロが、「トリノっ娘」のマリーザと結ばれる。『円舞』や『スカンデルベグのバイク』でも、ホラに生まれた登場人物たちは、決まって外の土地の人間と恋に落ちる。異なる土地に生まれ育った男女の恋を書きつづける理由について、アバーテは次のように語っている。
わたしたちは五世紀前からカラブリアに暮らしています。わたしたちはアルバレシュであると同時に、カラブレーゼ(カラブリア人)でもあるのです。この小説[訳者註:『モザイク』を指す]には、「美しきロッサニーザ」というカラブリアの女性が登場し、パパスと結婚します。ここからわたしは、カラブレーゼとアルバレシュの「雑婚」に筆を進めていきます。カラブレーゼとアルバレシュの結婚はわたしたちの歴史を変えました。なぜなら、こうした結婚をとおして、わたしたちは純粋なアルバニア人ではなくなったからです。[中略]わたしたちアルバレシュの末裔も、アントニオ・ダミスも、誰もが混淆(contaminazione)の果実です。それは言語の混淆であり、文化の混淆であり、愛の混淆でもあります。混淆はわたしの小説の特徴のひとつですが、とりわけこの作品にはそうした面が強く表れています。 7
右の引用文では、アバーテが使っている「contaminazione」というイタリア語を「混淆」と訳したが、この単語には通常「汚染」という訳語があてられる。「contaminazione」とは「純粋なものに別のものを混ぜて汚すこと」であり、そこには明らかに否定的なニュアンスが含まれている。ところが、アバーテは言葉の意味を逆手に取って、「不純なものの価値」を強調する。そして、言語や文化の「汚染」によって生まれる豊かさを、自身の文体にも浸透させようとするのである。『モザイク』の登場人物はアルバレシュ語やアルバニア語を頻繁に口にする。くわえて、ミケーレの両親やパオロ・カンドレーヴァの語りには、カラブリア方言が数多く散りばめられている(残念ながら、カラブリア方言は訳文に反映されていない。ただし、本書一九四頁の「プローヴァル、エ・ッボーヌ」、「ヨカーマラッムッチャレッドゥ?」はカラブリア方言である。意味はそれぞれ、「試してごらん、おいしいよ」、「隠れん坊して遊ぼう!」)。これはホラを舞台にしたすべての作品に共通する特徴であり、アバーテの文体を構成する不可欠の要素でもある。作家の少年時代の記憶をもとに書かれた『帰郷の祭り(La festa del ritorno)』から、言語の混淆のもっとも典型的な例を抜き出してみよう。
人生で初めて学校に行った日から、もうそんな調子だった。不安と好奇心を胸に教室へと入っていった僕だったが、三〇分もしたころには早くも欠伸していた。先生の説明していることが、さっぱり何も分からなかったのだ。僕は思った。このシュコーラってとこじゃタリアーノが話されてんのか。年寄りや、キアッツァでわけの分からないこと言いながら商売してる余所者が話してる言葉だ。あとは役者だな、「ケ・ベッラ・コーザ・エ・ナ・ジュルナータ・エ・ソーレ」とか歌ってる連中。それに父さんも髭を剃るとき、この言葉で歌ってる「ラリア・セレーナ・パラ・ジャ・ナ・フェスタ」なんてね。きっと父さんがフロンチァから戻ってきたときのような、盛大な祭りなんだろうな。 ともかく、先生の使っている言葉は僕には馴染みがなかった。「点呼を取りますよ」テンコ? 「エ・キ・ヴォ・キスタ・ッカ・エ・ミア?」僕は必死に「タリアーノ」を絞り出して、先生が僕の隣の席に座らせた五年生の女子に尋ねた。 すべての一年生の横には、専属の守護天使かつ翻訳者がいた。僕の天使は言った「ミエストリア・カ・タナ・セ・カ・タパチュ・クアデルニン」そこで僕はノートを開いた。「カ・タマレチュ・ラプスィン」そこで僕は鉛筆を握った。「カシュトゥ・ムバヘト・ラプスィ」こう言って天使は鉛筆の持ち方を僕に見せてくれた。僕は欠伸した。その女子に叱られた「テ・シュコラ・ンガ・アガレト」(傍線、太字、斜体の加工は引用者によるもの)8
この箇所では標準イタリア語を背景に、カラブリア方言(傍線を引いた部分)、ナポリ方言(太字部分)、アルバレシュ語(斜体部分)が「モザイク状」に点在している。アバーテ自身の幼少期を思わせる語り手の少年は、キアッツァ(広場)で役者が歌っているナポリ民謡の言葉がタリアーノ(イタリア語)なのだと思いこんでいる。アルバレシュの家庭で育った子供たちにとって、イタリア語とはかくも遠く、馴染みの薄い言語だった。短篇集『足し算の生(Vivere per addizione)』に収められた「村の行列」という一篇で、アバーテはアルバレシュ語を「ギウハ・エ・ザマレス」と呼んでいる。9「心の言語」を意味するアルバレシュ語表現である。「ギウハ・エ・ザマレス」に対置されるのが「ギウハ・エ・ブカス」で、これは「パンの言語」、すなわち、生きる糧を稼ぐための言語にあたる。それは、アメリカに移住した経験を持つアバーテの祖父にとっては英語であり、ドイツへの出稼ぎ移民だった父にとってはドイツ語であり、アバーテ自身にとってはイタリア語だった(アバーテはかつてドイツの移民学校で、イタリア系移民第二世代にイタリア語を教えていた)。移住を契機に、人は好むと好まざるとにかかわらず、パンの言語の習得に迫られる。わたしたちの知覚する世界は、母語とは異なる言語の学習をとおして、複数の言語に「汚染」されていく。アバーテの文学は、そうした「汚染-混淆」に彩られている。心の言語とパンの言語がさまざまに絡まり合い、織り合わされ、色とりどりの「言葉のモザイク」が生みだされている。
「声を張りあげてもしようがない。あとはただ、できるかぎり自然な仕方で、過去が現在へと結びつくのを待つだけだ。そうしてはじめて、偉大なる時は意味を持つ」(本書二五七~八頁)。ゴヤーリはラウラとミケーレにこのように語っていた。いかにして過去を現在に結びつけるか。いかにして、過去の記憶を未来へと継承するか。これはゴヤーリだけでなく、作家アバーテにとっての関心事でもある。最新作の『待つ幸福(La felicità dell’attesa)』は、二〇世紀のはじめにカルフィッツィからアメリカへと移住した、アバーテの祖父の体験に着想を得た長篇である。この作品のエピグラフには、教父アウグスティヌス(三五四~四三〇)の『告白』から、「時間」をめぐる省察が引かれている。
「三つの時がある。過去についての現在、現在についての現在、未来についての現在」じっさい、この三つは何か魂のうちにあるものです。魂以外のどこにも見いだすことができません。過去についての現在とは「記憶」であり、現在についての現在とは「直観」であり、未来についての現在とは「期待」です。10
アウグスティヌスは『告白』の十一巻で、「時間とはなにか」という大問題に取り組んでいる。わたしたちは子供のころ、過去、現在、未来という三つの「時」があると教わった。けれど、現在はともかくとして、過去と未来はどこに「ある」のか? 過去とは「すでにない」ものであり、未来とは「まだない」ものではないのか? 「ない」はずのものを、どうしてわたしたちは「ある」ように感じるのか? このような問いかけを経てアウグスティヌスがたどりついた答えが、『待つ幸福』のエピグラフとして引用された箇所である。つまり、確かに「時」は三つあるが、それは過去、現在、未来と区別されるのではない。そうではなく、三つの「時」はすべて現在に属している。「ある」ものはすべて、現在としてのみ「ある」のである。「未来が「まだない」ことを、だれが否定しましょうか。にもかかわらず未来にたいする期待は、精神のうちに「もうある」のです。過去が「もうない」ことを、誰が否定しましょうか。にもかかわらず過去の記憶は、精神のうちに「まだある」のです」 11過去は「まだあるもの(記憶)」として、未来は「すでにあるもの(期待)」として、現在という「時」に寄り添っている。アウグスティヌスのこの言葉は、アバーテの文学を読むための見事な補助線を提供している。アバーテの作品において、過去はつねに「まだある時」として描かれる。そして、「まだある時」に精通している人物(『モザイク』のゴヤーリや『風の丘』のミケランジェロ)が、「すでにある時」を生きる世代へ、記憶を引き継いでいくのである。本書の題名になっている「モティ・イ・マヅ(偉大なる時)」とは、英雄スカンデルベグが生きた時代であり、アルバレシュの祖先がイタリアに共同体を創建した時代でもある。けれどアバーテによれば、わたしたちが生きる現代においても、「モティ・イ・マヅ」はそこかしこに息づいている。五〇〇年前の逃走者も、現代のアルバニア難民も、アバーテの祖父や父も、さらには作家自身もまた、「旅立ちを強いられた者」として同じ運命を共有しているからである。ゴヤーリはモザイクの工房で、こんな言葉を口にしていた「出来事がいつ起きたかは重要じゃない。俺たちの内側に痕跡を残したなら、その「時」は偉大だったということだ」(本書一四九頁)。物語の震えを感じとる聴き手がいるかぎり、「偉大なる時」が終わりを迎えることはない。『モザイク』の世界では、移住という共通の体験を媒介にして、過去と現在が同化し、異なる「時」の混淆が生じている。こうして読者は、ひとつの平面に複数の時が並置される「時のモザイク」を目の当たりにする。石やガラスの欠片でなく、出自も響きも異なるとりどりの言葉を用いて、アバーテは物語というモザイクを紡いでいく。言語と、文化と、愛の混淆が織りなす色彩が、光を放つ風となって、わたしたちの生きる時を照らしている。
本書の刊行にあたっては、未知谷の飯島徹さん、伊藤伸恵さんにたいへんお世話になりました。二〇一三年の春、アバーテの『帰郷の祭り』を未知谷から出したいと提案した際は、版権の壁が立ちはだかり実現は叶いませんでした。その翌年、今度は『モザイク』の版権取得を目指したものの、こちらも一筋縄ではいきませんでした。無事に刊行までこぎつけたことを、ほんとうに嬉しく思います。アルバニアの文化や歴史にかんしては、イスマイル・カダレ『死者の軍隊の将軍』を翻訳された井浦伊知郎先生による、『アルバニア・インターナショナル』(社会評論社、2009年)に多くを教えられました。ここにお礼申し上げます。本訳書のカバーには、みやこうせいさんから作品をご提供いただきました。アルバレシュたちの「故郷」である、アルバニアの古都の風景です。
「あとがき」でも触れたとおり、日本では二〇一五年にアバーテの『風の丘』が刊行されています。本書と併せてお読みいただければ幸いです。一冊、二冊……と読み進めるうち、アバーテの作品はどんどんと面白くなっていきます。コーラスの音色のように、小説の世界が響き合い、奥行きを増していくからです。ひとりでも多くの日本の読者に、この作家の魅力が伝わるよう願っています。
二〇一六年三月 静和にて
訳者識