ジョン・ファンテ『デイゴ・レッド』訳者あとがき
帰りえぬ故郷へ帰るということ
イタリアの国家統一(一八六一年)からまだ間もない一九世紀末から二〇世紀の初めにかけて、おびただしい数のイタリア人が国外へと移住した。フランス、スイス、ベルギーといった近隣のヨーロッパ諸国や、アメリカ合衆国、アルゼンチン、ブラジルに代表される新大陸の国々が、イタリア人移民の目指す先だった。国勢調査によれば、一八九〇年から一九三〇年までの国外移民の総計はじつに一五〇〇万人にのぼる(そのうち、合衆国への移民が五〇〇万人弱)。それはまさしく、民族をあげての大移動だった。1移民の大半は、生まれ故郷を覆いつくす貧しさから逃げてきた人々だった。新たな土地で新たな生を獲得することは、移民たちの夢であり、彼らに課された使命でもあった。とはいえ、「あとからやってきた人々」にたいする社会の眼差しは得てして冷たい。イタリア人移民の主な受け入れ国の一つであるアメリカでは、大西洋岸へと間断なく押し寄せるイタリア人の大群は、歓待よりむしろ拒絶の反応を合衆国人のあいだに引き起こしていた。
現代イタリアの作家メラニア・G・マッツッコ(一九六六~)の代表作『ヴィータ』は、二〇世紀初めに南イタリアの小村からアメリカへと移住したマッツッコの祖父の体験を、文学的に再構成した小説である。膨大な資料を基礎として、当時の社会風俗の綿密・詳細な再現が試みられた本作品は、イタリア人移民がアメリカで被っていた差別の状況についても丁寧に伝えている。
表玄関の門には「犬、黒人、イタリア人立ち入り禁止」と書いてあった。カフェのガラス窓には「犬、黒人、イタリア人お断り」とあった。[…]ディアマンテは今では、ナポリ弁の「グアッポ(guappo)」に響きの似たあの言葉が何を意味するのか理解していた。「ワップ(wop)」というその言葉は、イタリア人という意味だった。「イタリア人」とは、侮辱の言葉だった。ディアマンテは混乱せずにはいられなかった。生まれ故郷のトゥーフォの学校では、イタリアこそ文明の揺籃の地であり、マルコ・ポーロ、クリストーフォロ・コロンボ、ミケランジェロ、ジュゼッペ・ヴェルディ、ジュセッペ・ガリバルディは、誰もかれもがイタリア人だと教えられていたから。ほかには「デイゴ(dago)」という侮蔑語があり、これもまたイタリア人を意味する言葉だった。もし、人が誰かにデイゴと言ったなら、その誰かは馬の下痢よりも低級な存在と見なされているということだった。2
本書『デイゴ・レッド』(Dago Red, Viking Press, 1940)の作者であるジョン・ファンテ(1909-83)は、「馬の下痢よりも低級な存在」であるイタリア人移民の第二世代として、コロラド州のデンバーに生まれた。父ニック・ファンテはイタリアのアブルッツォ州出身で、一九〇一年にデンバーへ移住し、れんが積み工として働いていた。母メリー・ファンテ(旧姓カポルンゴ)は、イタリア人移民家庭の五女としてシカゴに生まれている。メリーの誕生後ほどなくして、カポルンゴ家はデンバーへと引っ越しており、この地でニックとメリーが出会うことになる。本書に収録された十三の短編はいずれも、「デイゴ」の家庭に生まれ育ったファンテの記憶や体験が、文学作品として結晶化したものである。3作品のタイトルである「デイゴ・レッド(赤いデイゴ)」とは、「デイゴたちの飲み交わす赤ワイン」を意味する表現である。デイゴが侮蔑語である以上、デイゴ・レッドにも当然「安ワイン、低級なワイン」という暗示がこめられている。もっとも、「純粋なアメリカ人」の見方はどうあれ、イタリア人移民にとってデイゴ・レッドは、日々の暮らしに生まれ故郷の香りを添える、かけがえのない役割を担わされた飲み物だった。カラフからグラスに注がれ、やがて舌の上を転がる赤い液体は、鼻腔をくすぐり喉を震わせ、じきに体中へと熱を伝える。ワインは五感すべてに働きかけながら、デイゴたちに自らが根を張る土地を思い起こさせる。短編「お家に帰ろう」に記されてある、「摘みたての葡萄から作られた、紫がかった赤色の、苦さのなかにほんのりと甘さが香るそのワイン」(二五一頁)こそ、イタリア人移民の食卓を飾るデイゴ・レッドにほかならない。
ファンテは当初、この短編集に『ワップのオデュッセイア』という題名をつけるつもりでいた(本書に収録された一短編に因むタイトルである)。一九四〇年四月二十三日、編集者のパスカル・コヴィチに宛てて、ファンテは次のように書いている。
僕はつい最近、二〇〇〇〇語のものすごい中編を書き終えたところだよ。題名は「ディーノ・ロッシに花嫁を」。あぁ、まったく、何という語り口だろう。何という物語だろう。僕はこれをエリザベス・オーテイスに送った。もし彼女がこの中編を売る相手を見つけられなかったら、アメリカ文学にたいする僕の評価はガタ落ちだろうな。
パット、聞いてくれ。僕は今、一冊の短編集を計画してる。[…]本のタイトルは「ワップのオデュッセイア」にしようと思う。どうだ、最高だろ?4
パット、聞いてくれ。新しいタイトルを思いついたんだ。うっとりするような強烈なタイトルだ。DAGO RED。どうだ、パット。デイゴ・レッド。バン! 「ワップのオデュッセイア」じゃ重苦しすぎる。まるで丘に十字架を運ぶキリストみたいだもんな。「デイゴ・レッド」には閃光と熱狂がある。デイゴ・レッド。バン!5
かくして、それからさらに三ヶ月後の九月二十三日、ファンテにとって三冊目の著作にあたる『デイゴ・レッド』が出版される。批評家は本作品に惜しみない賛辞を送った。「ニューヨーク・タイムズ」は、本書の各ページには作家の才能が「瑞々しい草原に降り注ぐ陽の光のごとく」散りばめられていることを認め、「タイム」にいたっては『デイゴ・レッド』を、「一九四〇年に発表された短編集としては、おそらく最高の一冊」とまで褒めたたえた。6もっとも、その後のファンテの執筆活動は振るわなかった。『デイゴ・レッド』の刊行以後、ファンテが息を引き取る一九八三年までの約四十年間、この作家が新たに発表した長編小説はわずか三作に過ぎない(『満ち足りた生Full of Life』一九五二年、『葡萄の信徒会The Brotherhood of the Grape』一九七七年、『バンカーヒルからの夢Dreams from Bunker Hill』一九八二年)。『満ち足りた生』と『葡萄の信徒会』は商業的に大きな成功を収め、批評家からの声もなべて好意的だったが、こうも寡作とあっては、文学のメイン・シーンにふたたび居場所を見出すことは不可能だった。
とはいえ、作家の最晩年にはひとつの喜ばしい驚きが用意されていた。当時、ヨーロッパとアメリカの読者から多大なる支持を得ていたチャールズ・ブコウスキー(一九二〇~九四)が、もはや入手不可能となっていたファンテの諸作品の再刊を目指し、出版社への働きかけを始めたのである。7すでにブコウスキーの著作を数多く刊行していたブラック・スパロウ・プレスがその任を引き受け、一九八〇年、ファンテの長編小説第二作Ask the Dust(『塵に訊け!』都甲幸治訳、DHC、二〇〇二年)の再刊が実現する。ジョン・ファンテが二十代の終わりに執筆したこの「青春の書」は、初版刊行から四十年の時を経て、批評家たちに歓呼をもって迎えられた。ブラック・スパロウ・プレスはその後の数年間に、ファンテの重要な作品をことごとく再刊する。かくして(一部の熱狂的な崇拝者を除き)ほとんどの読者公衆から忘れ去られていたファンテの作品は、二〇世紀アメリカ文学のマスターピースとして復活を遂げることになる。8
『デイゴ・レッド』には十三の短編が収録されており、そのうちの九篇は、一九三二年から三七年にかけて文藝雑誌に発表された作品である(残りの四篇は『デイゴ・レッド』にて初出。本書巻末「『デイゴ・レッド』収録作品初出一覧」を参照)。「ミサの侍者」はファンテにとって、商業誌に掲載された初の作品にあたる。次に陽の目を見た「お家へ帰ろう」と併せ、最初期の二つの短編においてすでに、ファンテのその後の作品に繰り返し現れるだろう主題がはっきりと打ち出されている。それはすなわち、「家族の記憶」と「カトリック信仰(ならびに、幼少期に授かったカトリック教育)」であり、この二つの要素が、ファンテの作品の根底に流れる「イタリア性」(あるいは「アメリカ的イタリア性」)を形づくっている。
短編「お家に帰ろう」では、語り手のジミー・トスカーナはすでに作家としてデビューを果たしている。そのジミーが、妹のクララとこんな会話を交わす場面がある。
妹が言うだろう、「兄さんの書いた話、雑誌で読んだわ。兄さん、教会の悪口を書いてるでしょう」 僕は言うだろう、「ばか言うな。あれのどこが教会の悪口なんだよ」(二五七-二五八頁)
クララの言う「兄さんの書いた話」としてファンテがここで念頭に置いているのは、「ミサの侍者」であると見て差しつかえないだろう。たしかに、「ミサの侍者」の内容は「教会の悪口」のように読めないこともない。事実、「デンバー・カソリック・レジスター」紙は、一九三二年八月二日に早くもこの作品の書評を掲載し、「この短編は神への冒瀆にほかならない」と断じている。9作家の幼少期を思わせるジミー少年の語り口は、真剣なようでもあり、おどけているようでもあり、その捉えどころのなさが読む者の笑いを誘う。描写する対象に備わっている(しばしば当事者たちは意識していない)滑稽な要素を、ファンテの乾いた筆致は無遠慮に明るみにだしてしまう。その意味で、ファンテの文章がアイロニーの性格を帯びていることは確かであり、笑いの標的とされた人々が怒りや戸惑いを覚えるのも無理からぬ面はある。「ミサの侍者」の一節で、語り手やそのクラスメートたちが街はずれの丘に花を摘みに行く場面は、ファンテの小説作法の重要な性格を雄弁に伝えている。その性格とは、イタリアのある批評家の言葉を借りるならば、記憶のなかに淀む「恥辱」を文学の素材として昇華させる創作態度である。10
翌日、僕らミサの侍者たちはいつもどおりに登校し、午後になると、山すその丘に出かけた。祝福された聖母の祭壇に供える花を、集めにいくためだった。[…]僕らは二つのグループを作り、端から端まで、街を横切って歩いた。シスター・セシリアに引き連れられた僕らはまるで、囚人の集団か、なにかそれに類した一群のようだった。僕らはまるで、危険人物だった。僕はこの行進が嫌いだった。僕らに出くわすと、プロテスタントの連中はかならずその場に立ち止まり、変人を見るような目つきでじろじろと眺めてきた。シスターたちはどう見ても、珍奇な身なりの珍奇な女たちだった。(六五-六六頁)
ファンテはこのようにして、幼少期に授かったカトリック教育を「見世物」に仕立てあげ、「文化人類学的」とでも形容すべき興趣を作品に添えるのである。イタリア人移民の第二世代というファンテの出自は、こうした「見世物」を演出するうえで、尽きることのない豊かな源泉を作家に提供している。少年時代のコンプレックスを極端な戯画にして描いた「とあるワップのオデュッセイア」においてファンテは、自らに十字架のようにして背負わされた文化的背景を、小説の素材として徹底的に利用しつくしている。凶暴で気分屋のいかにも「イタリア的」な父親像。祖母の話す不自然な英語に恥ずかしさを抑えきれない少年の心情。「ワップ」や「デイゴ」と他人から名指されたときに湧き上がる、胃がよじれるほどの怒りと憎しみ。これらすべてが絡まり合い、響き合うことで、普段は通奏低音として流れているファンテの文学の「アメリカ的イタリア性」が、今や主旋律となって読者の耳に鳴り響くことになる。圧巻は、語り手の少年が「弁当箱を自分の体で覆い隠し」昼食をとる場面だろう。さらに悪いことには、サンドイッチのパンは家で焼かれたものだった。パン屋で売られている「アメリカン・ブレッド」ではなかった。マヨネーズや、そのほか「アメリカな」品々を食べられないことに、僕は大いなる嘆きを漏らした。(二三〇頁)
ファンテにしか書けない、ファンテだけの文学が、ここには力強く脈打っている。移民第二世代であるファンテが幼少期に感じていた「生きづらさ」の痕跡は、ファンテの著作のいたるところに顔を覗かせている。たとえば、青春小説『塵に訊け』の有名な一場面では、「ワップ」や「デイゴ」の亡霊が、主人公アルトゥーロ・バンディーニの恋路を妨げる足枷として描かれている。あぁ、カミラ! 子供のころ、故郷のコロラドで、あのぞっとするような名前で俺の心を傷つけたのは、スミスやらパーカーやらジョーンズやらだった。あいつらは俺のことを、「ワップ」やら「デイゴ」やら「グリーザー」やらと呼んだ。そしてやつらの子供も、俺が今夜きみを傷つけたのとすっかり同じように、俺の心を傷つけた。[…]俺はきみを「グリーザー」と呼んだ。でも、それを口にしたのは俺の心じゃない。古傷の疼きが、俺にその言葉を吐かせたんだ。俺は自分の仕出かした恐ろしい振る舞いが、恥ずかしくてたまらない。11
カフェでウェイトレスとして働くメキシコ人女性カミッラ・ロペスとバンディーニ青年の関係は、近づいたかと思えば離れ、離れたかと思えば近づくということを繰り返し、その恋はいつまでも進展らしい進展を見せようとしない。お互いの生に刻印された「恥ずべき」出自が、二人の感情を硬直させる一因となっていることは疑いようがない。かたや「ワップ」、かたや「グリーザー」として、「まっとうなアメリカ人」から虐げられた者同士が手に手を取り合うという展開にはならないのである。「とあるワップのオデュッセイア」をはじめとする『デイゴ・レッド』所収の各短編を読むことにより、(作家のアルター・エゴである)アルトゥーロ・バンディーニの人物像は格段の深まりを見せる。バンディーニ青年にとって、イタリア人移民の家庭に生まれ育った負い目と引け目は、一朝一夕の決意で別れを告げられるような生易しい代物ではない。その感覚は作家の原体験とかかわりを持ち、心の奥底まで強靭な根を張りめぐらしている。「アルトゥーロ・バンディーニのサーガ」の第一作であり、ファンテの長編作品としては初めて世に出た一冊でもある『バンディーニよ、春を待てWait Until Spring, Bandini』は、短編「雪のなかのれんが積み工」ときわめて似通った世界観を持った作品である。12ファンテが幼少期を送ったコロラドを舞台に、クリスマスを目前に控えた貧しいイタリア人移民家庭の生活がそこには描かれている。バンディーニはいまだ無垢な(それゆえ、ある意味ではこのうえなく残酷な)少年であり、将来は作家ではなく野球選手になることを夢見ている。イタリア人の両親のもとに生まれてしまったという取り返しのつかない失態を、バンディーニ少年は絶えずくよくよと気に病んでいる。
少年の名前はアルトゥーロだった。ところが少年はこの名前を憎んでおり、ジョンと呼ばれることを欲していた。少年の性はバンディーニだった。ところが少年はジョーンズと呼ばれたがっていた。少年の母と父はイタリア人だった。ところが少年はアメリカ人でありたかった。少年の父はれんが積み工だった。ところが少年はシカゴ・カブスのピッチャーになりたかった。[…]お隣にはモリーズ一家が住んでいた。この家からは物音ひとつ、けっして、一度も聞こえてきたことがなかった。物静かな、「アメリカ的な」人たちだった。一方で少年の父親は、たんにイタリア人であるだけでは飽き足らず、喧しいイタリア人として日々を送らずにはいられなかった。13
両親がイタリア人であるという不都合な事実は、少年の日常生活にあからさまな不利益をもたらしていた。たとえば、バンディーニ家の近所に暮らすブレッドソー家の母親は、少年が「イタリア人であり、カトリックであり、界隈の悪ガキ集団のリーダーである」ために、アルトゥーロといっしょに遊ぶことを息子たちに禁じていた。14まさしくこうした手合いこそ、『塵に訊け』のバンディーニ青年が回顧する「スミスやらパーカーやらジョーンズやら」に代表される、良識ある合衆国人たちである。人種と宗教という二つの要素が、アメリカに暮らすイタリア人移民の「生きづらさ」を創りだしている主な原因だった。ファンテが生まれた二〇世紀初頭のアメリカでは、イタリア人は「白人と黒人の中間」に位置づけられ、純粋な白人種から区別されていた。さらに、ジュゼッペ・セグリを始めとする当時の「実証主義的」人類学者の研究が示すところによれば、同じ「イタリア人」と言っても、北と南の出身者のあいだには埋めがたい溝があった。アラブ人やアフリカ人との度重なる混血のために、南イタリア人は北イタリア人よりも人種的に劣っていると、多くのアメリカ人(とイタリア人)は真剣に信じていた。合衆国の移民局のメンバーは同時期、南イタリア人を本物の「コーカソイド人種」と見なすことにたいし疑念を表明している。そして、アメリカに渡ってくるイタリア人移民のおよそ八割は、南部の出身者たちだった。15
くわえて、ファンテが生まれ育ったコロラドは、伝統的に反カトリック感情の根強い土地柄だった。一八九〇年には、「アメリカン・プロテクティブ・アソシエーション」という団体が生まれ、カトリック教徒の経済活動の排斥と、公職からのカトリック教徒の追放を目指した運動を展開している。一九二〇年代に入ると、「一〇〇パーセントのアメリカ人」をスローガンに掲げるクー=クラックス=クラン(KKK)の活動がコロラドで劇的な広がりを見せる。コロラドに暮らすユダヤ人や黒人の数は少なく、しかもそのほとんどがデンバーの限られた地域に集中して居住していたため、彼らはKKKにとって強い忌避の対象とならなかった。クランがもっとも敵視したのは、コロラドの各地に散らばる約二五万人にもおよぶカトリックである(当時のコロラドの全人口は一〇〇万人足らず)。カトリック教会に所属する人間はほとんど全員が移民であり、なおかつアングロサクソン系の国々の出身者ではなかった。クランのメンバーにとってカトリック教徒の存在は、古き良きアメリカ的なライフスタイルを浸食する深刻な脅威として映った。一九二三年には、KKKの党員であるベンジャミン・F・ステープルトンがデンバー市長に就任している。市民たちは投票行動をとおして、カトリックの排斥を目指す勢力に公的な信認を与えたのである。16
そうした時代背景を踏まえたうえで、本書所収の「アヴェ・マリア」を読み返してみると、ジミー少年とウィリー・コックスの諍いには、たんなる子供同士の喧嘩としては片づけられない、文化的、宗教的、政治的な奥行きが広がっていることが分かってくる。カトリックの司祭は修道女の赤ん坊を喰らい、ミサでは人間の生贄が捧げられるのだと主張するウィリー少年は、極端な差別感情に染まった例外的な人物というわけではない。ウィリーの言葉は、同時代の多くのデンバー市民が抱いていたカトリックにたいする嫌悪が、いくぶんかの誇張とともに表現されたものにすぎない。本文中、ファンテは繰り返し、ジミー少年が感じている「息苦しさ」を強調している(「やめろって、ウィリー。お前といると息が詰まるよ(You’re choking me)」、「ウィリー、やめろ! 僕はもう窒息しそうだ!(I can’t hardly breathe!)」、「ウィリー少年が、彼に息の詰まる思いをさせていたのです(The Cox boy was choking him)」。以上、二八五-二八六頁)。ウィリーの鼻面を目がけ拳を振り抜くことで、ジミーは見事に迫害者を打ち倒した。けれど、たとえ目の前のウィリーを叩きのめしたところで、少年の「息苦しさ」がこれを限りに解消されるとは思えない。カトリックやイタリア人移民への反感が消えないかぎり、第二、第三のウィリー・コックスはこの先いくらでも産まれ得る。おそらくジミー少年は、眼前にそびえる「屈強な」ウィリーよりもむしろ、背後からウィリーをけしかけている目に見えない力にこそ、息詰まる思いをさせられていたのだろう。それは言うなれば、わたしたちが呼吸する空気のなかに知らぬ間に漂い蔓延していた、憎悪という名の胞子である。
ウィリーとジミーの会話のなかには、聖母がいかにしてキリストを身ごもったかという、カトリックの教義のきわめて重要な論点がちらりと顔を覗かせている。
「赤首よ、俺は妙な話を聞いたんだ。俺の祖父さんが言ってたんだけどよ、おまえら〈カトリッカー〉どもは、世の中の母親がかならずやってることをやらないで、イエスの母親は子を孕んだと信じてるんだってな。それ、ほんとか?」
「それは〈無原罪の御宿り〉だよ。うるせえなぁ、くそっ!」(二八六頁)
短編「神の怒り」において、大地震の恐怖から語り手を救ったのも、やはり聖母への信仰だった。マンションの一室で激しい揺れに見舞われたあと、年上の恋人を引き連れ駐車場へと避難したジミーは、「のっぽのプロテスタントの教会」がものの見事になぎ倒されている光景を目の当たりにする。一方で、プロテスタントの教会の反対側に位置するカトリックの教会は、地震の前と変わらずそこにあり、黄金の十字架をきらめかせていた。それを見たジミーは喜びにむせ返り、十五年ものあいだ忘れ去っていた祈禱を「いきなり、なんの苦労もなしに」唱えはじめる。「困窮のうちにあれ 欠乏のうちにあれ/祈れ 聖母よ われらのために/われらのために 祈れ われらが死を迎えるとき/祈れ 祈れ われらのために!」(二七〇-二七一頁)。これは、聖母マリアへと捧げられた「いとも聖なる御方よ(O Sanctissima)」と呼ばれる祈禱の末尾にあたる部分である。ジミーが唱えた四行に先立つ各詩節では、「愛すべき、汚れなき御母よ(Mater amata intemerata)」と、マリアの聖性を強調する文言がリフレインとして配されている。これは、聖母が罪を犯すことなくキリストを身ごもったという、前述の〈無原罪の御宿り〉という教義にたいする仄めかしである。脇祭壇で蛇を踏みしめるマリアは、大地震のさなかにあっても、変わらずにジミー青年を見守っていた。こうしてジミーは、「血のなかを流れる祈禱の薄膜」に包みこまれる。そこはおそらく、聖母の胎内にもなぞらえられる、絶対的な平穏が約束された空間なのだろう。
『デイゴ・レッド』の後半に立てつづけに配された「とあるワップのオデュッセイア」、「お家へ帰ろう」、「神の怒り」の三篇はそれぞれ、イタリアへの、家族への、そして信仰への「帰還」について書かれた作品である。それはあたかも、ファンテの文学の核心をなす三主題が織りなすトリプティク(三連の祭壇画)のようでもある。『デイゴ・レッド』を通読すればただちに察せられるように、イタリア、家族、信仰という三つの要素はいずれも、作家の少年時代の記憶と密接に結びついている。ファンテは最晩年、長編デビュー作である『バンディーニよ、春を待て』が再刊された際、小説の冒頭に短い助言を寄せている。その末尾で、ファンテは懐かしむような口調で、自らの文学がたどった道筋を振り返っている。
わたしはもう、この本を読むことはないだろうと確信しています。けれど、わたしにはもう一つ、確信していることがあります。それは、この人生をとおして、作家としてのわたしが書いてきたあらゆる人々とあらゆる性格とが、若書きのこの書物のなかに見出されるということです。古い寝室の記憶と、スリッパを履いて台所へ歩いていく母親の足音のほか、わたし自身にはもう、何ひとつ残されていません。18
デイゴ・レッドを飲み交わし、遠い故郷に想いを馳せる移民たちと同じように、ジョン・ファンテは書くことによって、「苦さのなかにほんのりと甘さが香る」記憶へと立ち帰ろうとする。幼少期の記憶とは、もはや具体的な現実としては存在しない、作家の精神的な故郷とでも呼ぶべき場所である。移民第二世代であるファンテにとって、イタリアとはあくまで暗喩としての故郷であり、その帰郷は想像力を通じてしか実現されない。聖母の懐、イタリアという自身の根、スリッパを履いて台所へ歩いていく母親の足音。手には触れられないこうした「故郷」を目指すため、ファンテは文学の想像力を帆として掲げる。イタリアと、家族と、信仰の香りをグラスから立ち昇らせつつ、「ワップのオデュッセウス」たるジョン・ファンテは、いつ終わるとも知れない航海を進みつづける。生涯にわたって繰り返された、帰りえぬ故郷へ帰りゆく旅の軌跡が、ファンテの文学には陰に陽に刻みこまれている。本訳書の底本には、一九九一年にブラック・スパロウ・プレスから刊行された、The Wine of Youth第三版に収録されているDago Redを使用しました。現在、Dago Redは単独の書籍としては流通していないため、『デイゴ・レッド』を英語でお読みになりたい方は、短編集The Wine of Youthをご覧ください(書誌情報については、本書巻末「John Fante著作一覧」をご参照いただければ幸いです)。
本書の刊行にあたっては、未知谷の飯島徹さん、伊藤伸恵さんに、たいへんお世話になりました。お二人から、つねと変わらない力強い後押しをいただいたおかげで、この魅力的な作品を日本の読者に届けることができました。心より感謝いたします。
二〇一四年七月 船橋にて
訳者識
余談となるが、ファンテの終生の友であるケアリー・マックウィリアムス(1905-1980)は、合衆国に暮らす移民の労働状況について数多くの研究を行い、精力的な社会活動に取り組んだ人物だった(本書巻末「John Fante年譜」参照)。そのマックウィリアムスによる、PREJUDICE. Japanese-Americans: Symbol of Racial Intolerance(一九四四年刊)という著作が、すでに日本語に翻訳されている(カレイ・マックウィリアムス『日米開戦の人種的側面:アメリカの反省1944』渡辺惣樹訳、草思社、二〇一二)。一九〇〇年前後から太平洋戦争開戦の時期にいたるまでの約四〇年間、カリフォルニアに暮らす日本人移民がどれほどすさまじい差別感情にさらされていたかについて、本書は克明に記している。こうした研究を踏まえるならば、二十世紀前半の合衆国におけるイタリア人移民への差別や偏見の歴史は、同時代の日本人にとって決して対岸の火事ではなかったことが分かる。人種的マイノリティがいかにしてスケープゴートに仕立てられ、政治的道具として利用されてゆくかについて、マックウィリアムスは明晰な分析を展開している。ファンテの人生に大きな影響を与えた人物の著作という意味でも、一読を勧めたい良書である。