ジョン・ファンテ『満ちみてる生』訳者あとがき
父になる、永遠の息子
一九三〇年代前半、若きファンテの文才をいち早く見出し、自身が主幹を務める文藝誌『アメリカン・マーキュリー』でデビューさせたH・L・メンケン(一八八〇~一九五六)は、文学の世界におけるファンテの「父」と呼ぶべき存在だった。三〇年代をとおして、二人のあいだでは活発な書簡のやり取りが行われている。創作上の悩みを赤裸々に吐露する新進の作家にたいし、メンケンはつねに変わらず、理解と情愛に満ちた助言を与えつづけた。一九三三年十月、メンケンが『アメリカン・マーキュリー』の編集から身を引くという報せを聞きつけたファンテは、敬愛する師にたいして次のように書き送っている「『アメリカン・マーキュリー』は僕の生地でした。僕の家、僕の学校、僕の恋人、僕の遊び場でした。それは僕にとって、生そのものでした」1一九四〇年九月、ファンテにとって三冊目の単行本となるDago Red(『デイゴ・レッド』拙訳、未知谷、二〇一四年)が出版される。その直後、次作執筆の原資としてグッゲンハイム財団の助成金を獲得するため、ファンテはメンケンに財団への推挙を依頼する。この件について二、三の書簡を交わしたあと、両者のやり取りは長期にわたって途絶えることになる。
四〇年代も一貫して旺盛な著述活動を続けていたメンケンであったが、一九四八年に脳卒中に見舞われ身体の自由を失う。新聞でメンケンの病状を知ったファンテは、自身の近況報告も兼ねて、見舞いの手紙をしたためている。
最後に手紙を書いてから十二年が過ぎました。そのあいだに、僕は結婚し、四人の子供に恵まれ、六ヵ月前に父親を亡くしました。父は七十二歳でした。長男の誕生は、僕の人生でもっとも素晴らしい出来事だったと思います。父を失ったことは、僕の人生でもっとも大きな痛みです。
十年ぶりに、僕の新作が出版されます。これまでに書いたなかでも、とびきり最高の一冊です。この秋に、リトル・ブラウンから刊行される予定です。献辞にはこう記すつもりです。
H・L・メンケンに 変わることのない讃嘆をこめて2
(一九五一年六月十八日付け)
そもそも本書は、世に出る以前からファンテに大きな収入をもたらしていた。『セールスマンの死』(一九五一年公開)や『真昼の決闘』(一九五二年公開)のプロデューサーとして知られるスタンリー・クレーマーが、手稿の段階から本書に目をつけ、映画化の権利を四〇〇〇〇ドルで購入していたのである。ファンテ自身が脚本を担当し、リチャード・クワインが監督を務めた映画『満ちみてる生』は、コロンビア・ピクチャーズの周到な宣伝による地ならしを経て、一九五六年十二月、クリスマスに合わせて公開される。原作の小説と同様に、映画は華々しい成功を収めた。『タイム』はファンテの脚本の「幸福に満ちた感触」を褒めたたえ、『ヴァラエティ』はこの映画を「きわめて満足のいく出来」と形容した。『ザ・ハリウッド・レポーター』は「勝者(Winner)」という見出しをつけて本作品について報じ、『ペアレンツ・マガジン』はこのフィルムを「家族向け映画」の月間最優秀賞に選出している。翌年二月、ファンテはWGA(全米脚本家組合)の会長を務めるエドモンド・ノースより、『満ちみてる生』が全米脚本家組合賞の最優秀賞(喜劇部門)にノミネートされたことを知らされる。かくも大々的な商業的成功は、ファンテの生涯を通じてただ一度きりの出来事だった。4以後、脚本家としてのファンテのもとには好条件のオファーが次々と舞いこむが、フィルムに結実した作品の数は少ない。さらに言うなら、こうした強力な追い風にもかかわらず、ファンテの小説家としてのキャリアはいささかも好転しなかった。次作『葡萄の信徒会(The Brotherhood of the Grape)』が発表されるのは、『満ちみてる生』の刊行からじつに四半世紀後(一九七七年)のことである。
ファンテの文学がもっとも豊かな実りをもたらしたのは、一九三八年から四〇年にかけての三年間だった。長篇デビュー作Wait Until Spring, Bandini(一九三八年。『バンディーニ家よ、春を待て』栗原俊秀訳、未知谷、二〇一五年。以下、『バンディーニ』と表記する)を皮切りに、三九年にはAsk the Dust(『塵に訊け!』都甲幸治訳、DHC、二〇〇二年)、その翌年には『デイゴ・レッド』と、重要な著作を立てつづけに刊行している。『デイゴ・レッド』と『満ちみてる生』のあいだには十二年もの空白が横たわっているが、ファンテはその期間も小説の執筆を中断していたわけではない。
記録に残っているかぎり、ファンテは一九四〇年代、少なくとも三つの作品を構想している。そのうちの二作は、『デイゴ・レッド』の版元であるヴァイキング・プレスから刊行される予定だった。一作目は、デンバーに暮らすイタリア系移民の生活を描いた、『あぁ、哀れなるアメリカよ!(Ah, Poor America!)』と題された小説である。しかし、一九四〇年十一月の時点で、作家はすでにこの作品の執筆を断念している。ファンテにとってより重要だったのは、フィリピン系移民を主人公とする『小さな茶色い兄弟(The Little Brown Brothers)』という長篇である。一九四四年の秋、全体の五分の一程度を書き上げたファンテは、ヴァイキングのパスカル・コヴィチに原稿を提出する。ところが、ファンテの強い期待に反して、コヴィチからの返答は否定的なものだった。自作への信頼を捨てきれなかったファンテは翌年、ニューヨークの出版人A.A.ウィンに宛てて、『小さな茶色い兄弟』の草稿に興味がないか問い合わせている(ファンテは書簡のなかで、「わたしは自分の書いた文章に興奮を覚え、これまでに手掛けたなかで最高の小説だと確信していました」と述べている)5。けっきょく、ウィンからも色よい返事は届かず、フィリピン系移民の小説は日の目を見ることなくお蔵入りする。作家は失意の底に沈むが、それでもふたたび小説の執筆に向かう。一九四六年三月、ヴァイキングのコヴィチに宛てた書簡で、ファンテは次作の構想を披露している。
親愛なるパット
僕が新しい小説を書きはじめたと聞いたら、きみは興味をそそられるだろう。その作品が、これまで僕が書いたなかでもっとも素晴らしい一冊だと知れば、ますます興味をそそられるだろう。それは出産計画をめぐる小説だ。ある男と、その妻をめぐる小説だ[……]。6
(一九四六年三月二十三日付け)
つい最近、『ウーマンズ・ホーム・コンパニオン』が僕の新しい本を五五〇〇ドルで買い取ったよ[……]。これはニッキー[引用者註:ファンテの長男のニックを指す]が生まれたときのことを書いた小説なんだ。もちろん、ほとんどの内容は作り事だけどね。ひとりの男とその妻が、元気な男の子の親になるまでの日々を描いた、最高に愉快な物語だよ。8
(一九五〇年六月七日付け)
この小説は純然たるフィクションです。けれどリトル・ブラウンは、フィクションという体裁ではこの本は売れないだろうと考えました。そこで、主人公に僕の名前を使えないかと提案してきたのです。僕は同意しました。この下らない名前の変更のおかげで、今や僕の新作は、フィクションではなくファクトになったというわけです。9
(一九五二年三月二十一日付け)
僕らの家は、父さんに来てもらった時のまま変わりないよ。僕は弁護士に会ってきた。僕たちにこの家を売りつけた男を相手に、訴訟を起こすつもりだから。そのあいだに、僕はスミスと話をつけようと思ってる。だけどこいつは、行方をくらましたきり戻ってこないんだ。[……]スミスは一年前にこの家を調べた検査官で、ここに白蟻はいないと言った張本人だよ。スミスと連絡が取れたらすぐに、責任を取らせてやる。10
(一九四五年五月十六日付け)
夫はゴルフ場と賭博台で、文字通り日々の大半を過ごしていました。ゴルフがなぜ問題かと言えば、この趣味が際限なく時間を食いつぶすからです。一九四六年から五〇年まで、夫は毎朝、世の男性が仕事に行くのと同じ時間にゴルフ場へ出かけていき、夕食の時分まで帰ってきませんでした。週末も含め、毎日同じことが繰り返されました。時たまタイプライターの前に座ることもありましたが、ゴルフに夢中になっていたあの数年、小説の執筆は完全に後まわしにされていました。11
一九五〇年の初め、ファンテはジョイスから第四子(三男のピーター)の妊娠を告げられる。小説の執筆が行き詰まり、出口の見えない状況がつづくなか、ファンテの目には妻や子供が、作家としてのキャリアを阻む忌まわしい重荷のごとく映りはじめる。ファンテは妻に堕胎を求め、ジョイスはそれをきっぱりと拒絶する。夫婦の関係は日増しに悪化し、ファンテは連日、深夜に泥酔した状態で帰宅するようになる(夫をベッドまで引きずっていくのはジョイスの役目だった)。三男の誕生を待つあいだ、作家は妻子を捨てて家を出ることも考えるが、けっきょくは思い直す。そして、もはや自分には後がないと悟った末に、新作『満ちみてる生』の執筆に取りかかる。牧歌的とも形容すべき平和な雰囲気に包まれたこの「家族小説」は、じつのところ崩壊寸前の家庭で書かれた作品だったのである。前述のとおり、『満ちみてる生』は小説が刊行されるより先に、映画化の権利料という形で作家に大きな収入をもたらしていた。そこで一家は、ロサンゼルスのマリブビーチに建つ豪邸を二九五〇〇ドルで購入し、小説の舞台となった家からの引っ越しを決める。経済的な余裕が生まれたこともあり、家庭内の緊張はひとまず和らぎ、夫婦は平穏な生活を取り戻す。「一エーカーの土地、まわりをぐるりと取り囲むコンクリートの壁、四つの寝室、娯楽室、車四台分のガレージ、日光浴用のテラス、二つの暖炉」12を備えた、一フロア当たり五〇〇〇平方フィート(約四五〇平方メートル)のこの新居が、ファンテ夫妻の終の住み処となる。
『満ちみてる生』は先行する作品から多くの要素を引き継いでいる。なかでも、家族、信仰、イタリアという、ファンテ文学の核心をなす三主題は、本書においても重要な位置を占めている。
『満ちみてる生』の語り手は、すでに「アメリカナイズ」の完了した移民第二世代である。妊娠中の妻とは別のベッドで眠り、スラックスが汚れればクリーニングに出し、列車に乗るときはポーターに荷物を運んでもらう。イタリアの百姓のメンタリティが抜けきらない両親は、「正しいアメリカ人」としての彼の挙動に不満や疑念を抱かずにいられない。移民の一世と二世のあいだに認められる断絶が、隠し味のスパイスのようにして、本書の各所に挿入されている。たとえば、父と息子が列車でロサンゼルスに向かう途中、息子は食堂車でステーキとカクテル(マンハッタン)を堪能する。一方の父はというと、座席から動かぬまま、パン、チーズ、サラミ、それにワインという、自宅から持参した質素な食事で胃を満たそうとする。二人の夕食の献立から、アメリカとイタリアという、遠く隔たる世界のコントラストがくっきりと浮かび上がる。
世代間の断絶を示す例としてとりわけ象徴的なのが、「ミンゴの伯父貴と山賊団」をめぐるエピソードである。もうすぐ生まれる子供のために、父と息子は協力して、父の故郷アブルッツォで生涯を送った「赤髪の英傑」の物語を完成させようとする。泥酔した父親の口から語られる、始まりもなければ終わりもない錯綜とした逸話をもとに、息子はどうにかして「二〇ページにおよぶ短篇」を書き上げる。ところが翌朝、目の前に差し出された原稿に父親は見向きもしない。読まないのかと問いかける息子にたいし、父はにべもなく言い放つ。 「俺が読んでどうする? いいか、息子よ、俺はそれを生きたんだぞ」(本書一二三頁)親子の会話は、物語を「生きた」第一世代と、物語を「読む(そして書く)」第二世代の隔たりを、この上ない簡潔さで表現している。生そのものが物語であるニック・ファンテのような人物に、本を読む理由などないのである。むしろ彼は書物に不信を抱いており、息子を読書から遠ざけるべく警告を発してさえいる(「その手の本を読むのはやめろ」本書一三〇頁、「そこの小僧は本を読みすぎるんです、神父さま。俺はずっと注意してきたんですがね」本書一三六頁)。『満ちみてる生』の父ニックの言葉は、『バンディーニ』の父ズヴェーヴォをめぐる描写を髣髴とさせる。
ズヴェーヴォが闘ってきた幾多の苦難と較べれば、未亡人の経験など物の数ではなかった。たしかに、本は読んでこなかった。つねになにかに追い立てられ、気苦労ばかりの人生を送ってきたズヴェーヴォに、本を読むための時間はなかった。それでも彼は生の言葉を、未亡人よりずっと深く読むことができた。未亡人の屋敷が書物で溢れかえっていようと関係なかった。彼の世界は、語るに足りる事柄に満ちていた。13
この場面でファンテは、「読むこと」と「生きること」を対置させつつ、後者に肩入れする姿勢をはっきりと表明している。『満ちみてる生』において、「読むこと」と「生きること」の対立は、作家とれんが積み工という親子の職業によっても暗示されている。父が積むれんがは「現実」を、息子が紡ぐ言葉は「虚構」を作り出す素材であり、両者はたがいに相容れない世界に属している。作家などという怪しげな商売に従事する息子に向かって、父はたびたび反発の感情を露わにする(「作家だとさ! はん!」本書四六頁、「なにが作家だ、くだらないことばかり書きやがって」本書五八頁)。たいする息子は、父の言葉を適当に聞き流す一方で、心なしか父の考えに同調している気味もある。ものを書くとはどこかいかがわしい行為であり、その胡散臭さをファンテは強く自覚している。『満ちみてる生』のニックには、言葉が孕む虚ろさを、「生」の側から指弾する役割が託されている。物語の端緒を開く白蟻の騒動と同様に、作品の中盤以降に前景化するジョイスのカトリック信仰への改宗もまた、作家の人生の「ファクト」に由来している。四〇年代後半、すなわちファンテがゴルフと賭け事に没頭していた時期、ジョイスは教父文学や聖人伝、それにカトリック神学にかんする書籍に読みふけるようになる。彼女は息子たち(長男のニックと次男のダン)をカトリック系の学校に通わせることを提案し、ファンテはただちに妻の意見に賛同する。一九四八年五月、ついにジョイスは洗礼を授かり、はじめての告解を経験する。妻のあとを追うように教会の懐へ立ち返ったファンテは、十数年ぶりに聖体拝領に参加する。かくして二人は、小説のなかのジョンとジョイスとは異なり、晴れて教会の公認する夫婦となる。ジョイスは当初、この「二度目の結婚」をきっかけに、夫が無軌道な生活から抜け出すことを期待していた。けれど妻の望みはむなしかった。婚姻の秘蹟を授かってからさして月日もたたないうちに、ファンテはゴルフ、ポーカー、飲酒という、なじみの生活へ引き返していく。14
『満ちみてる生』の語り手は、すでに教会を捨てて久しいものの、三十歳を過ぎた今もなお、信仰への郷愁を断ち切れずにいる。父親にたいする冷淡な態度を妻から咎められたあと、路上にひとりたたずむ父の姿を目にした彼は、自身の過ちを悟り涙を流す。「僕は泣いた。僕は自らの胸を打ち、こう言いたかった。メアー・クルパー、メアー・クルパー」(本書一一五頁)先述のとおり、本書はもともと「アルトゥーロ・バンディーニのサーガ」の第三篇になる予定だった。『バンディーニ』と『塵に訊け!』に描かれる、少年時代と青年時代のアルトゥーロも、自身が犯した罪を恥じ入り、深い悔恨の念とともに「メアー・クルパー、メアー・クルパー」と唱えている。これはカトリックのミサの冒頭で口にされる「回心の祈り」の一節であり、ファンテの原体験と密接に結びついた響きである。信仰は、作家の心から完全に姿を消したわけではない。それでも彼は、「善きカトリック信徒であること」の困難さを前にして立ちすくみ、「群衆をかき分けて進む」妻の背中を遠くから見守ることしかできない。妻の懇願と父の強要にもかかわらず、告解に赴くことを作家が頑なに拒絶した日の晩、妻は夫の寝室を訪れてある書物の一節を読みあげる。妻の口から流れ出る力強い言葉を聞いて、夫は覚えず喜びの涙を流す。ここでジョイスが朗読しているのは、十九世紀アメリカの作家ラルフ・ウォルドー・エマソン(一八〇三~八二年)による、「自己信頼(Self-Reliance)」と題されたエッセーの一部である。15エマソンは、牧師の家に生まれ、自身もまた牧師としての道を歩みながら、やがて教会の制度の在り方に疑問を抱き、ついには牧師職を辞したという経歴の持ち主である。エマソンの言葉が同時代の読者におよぼした影響を、ある研究者は次のように要約している。
それ[引用者註:エマソンの主張を指す]は当時のアメリカ社会で、既存の教会組織を疑問に付しつつ、新しい思想や活動を呼びおこす衝撃力を備えていた。なぜなら、正しい信仰の根源が、人間の外部の権威や伝統ではなく、人間の内部の魂にあるのだと発送転換することによって、かれは信仰の復活と教会からの解放という、従来の考えかたからすれば矛盾する二つの課題を、同時に達成したからである。16
ここに述べられている「信仰の復活と教会からの解放」こそ、『満ちみてる生』のジョン・ファンテが希求していた事柄である。本書の第五章では、父と同じくイタリアにルーツを持つジョン・ゴンダルフォ神父が、作家とのあいだに「教理問答」を繰り広げる。ところが、トートロジーとしか形容のしようがない神父の議論を聞くにつれ、ファンテは口を開く気力を失っていく。権威とは、思考する自由を人から奪う恐るべき力であり、「真理の僕」として生きることを阻む堅固にして強大な壁にほかならない。妻がカトリックに改宗した日、作家は告解を拒んだために、神からの赦しを得られずに終わる。けれどその晩、妻の声によって奏でられるエマソンの言葉が、司祭に代わってファンテの魂を赦したのである。作品の結末近く、分娩室でジョイスが奮闘しているあいだ、作家は病院の庭に建つ小ぶりな礼拝堂の前を通りかかる。このときファンテの口をついて出る「パクス・ウォビスクム」とは、カトリックのミサで唱えられる文言であり、復活したイエスが弟子たちに授けた言葉を典拠としている。それはまるで、新たな命の誕生とともに、作家の信仰が「復活」したことを告げ知らせる号砲のようでもある。母親に宛てた手紙のなかに書かれていたように、『満ちみてる生』は「ひとりの男とその妻が、元気な男の子の親になるまでの日々を描いた」作品である。ただし、本書は夫婦の物語であると同時に、父と(これから父になろうとする)息子の物語でもある。『デイゴ・レッド』や『バンディーニ』といった先行作品が示しているとおり、ファンテにとって父親は、自身の文学の源泉であり核心でもあった。次作『葡萄の信徒会』で、ファンテはふたたび父親を物語の中心に据えている。『葡萄の信徒会』が刊行されるのは一九七七年だが、じつのところその原型は、すでに一九五〇年代に構想されている。『満ちみてる生』の刊行からおよそ二年後、ファンテは出版社の編集者に宛てて、次作の概要を伝える手紙を書き送っている。
わたしはこれまでのキャリアをとおして、父について書くことに最大限の努力を注いできました。父の抱えていた問題や、父の経験した挫折と成功が、わたしの書くべき対象でした。父は三年前に亡くなり、わたしの心はそのために、決して消えることのない深い傷を負いました。瞼を閉じれば、今も父の姿が浮かんできます。父が過ごした最期の日々を、わたしは小説に書くつもりです。17
(一九五四年二月、日付け不明)
いったい男は、父のいない人生をどうやって生きるのだろうか? 朝がきて目を覚ますたび、自分に向かって言えるだろうか? 「わたしの父は、永遠に行ってしまった」[…]わたしもまた父親だった。自ら欲した役回りではなかった。わたしは子供のころに帰りたかった。家のなかで、父が強くやかましく過ごしていたころに帰りたかった。父性なんぞ糞くらえだ。わたしは父になるべくして生まれたのではない。わたしは生まれついての息子だった。18
「強い父」が健在でいるかぎり、男は「息子」として生きていられる。『バンディーニ』から『葡萄の信徒会』へいたるまで、ファンテはつねに、息子の眼差しをとおして小説の世界を創造している。イタリアの批評家エマヌエーレ・トレヴィは、ファンテのこうした創作態度を根拠に、この作家を「永遠の息子」と形容している。19父という「役回り」を拒絶する心情は、『満ちみてる生』の語り手のうちにも認められる。僕は泣いた。だって僕は、父親になんかなりたくないから。夫にも、男にさえもなりたくないから。僕は六歳か七歳に戻り、母さんの腕に抱かれて眠りたかった。(本書一九四頁)
けれど、父にも、夫にも、男にさえもなりたくないと言いながら、語り手はけっきょく、子供の誕生を大きな喜びとともに迎えている。そして、孫の誕生を知り涙にむせぶ父を前に、「男の孤独を、あらゆる男の優しさを、痛みと哀しみにまみれた生の美しさを」感じるのである。小説は、父と息子が連れ立って家に帰る場面で幕を閉じる。過去の作品を振り返るなら、『バンディーニ』の結末でも、父と息子が並んで家路をたどっていた。二つの場面のもっとも重要な違いを挙げるとすれば、それは『満ちみてる生』の末尾において、父がすでに祖父となり、息子がすでに父となっている点だろう。子供の誕生は疑いなく、ファンテの文学を新たな局面に推し進める要因のひとつになった。というのも、ファンテは父になることで、「息子でありたいと願いつづける父親」という新たなモチーフを獲得したからである。『満ちみてる生』において萌芽の生じた「父として在ることへのためらい」は、やがて『葡萄の信徒会』へと接続される。こうして、『バンディーニ』に端を発する、永遠の息子による父の物語は終焉を迎える。それはまるで、ひとつのワインが時間をかけて、ゆっくり成熟していく過程のようでもある。いつも同じ父と息子が書かれているのに、その風味は作品ごとに大きく異なる。『バンディーニ』はまだ若く、みずみずしく、ときに舌を刺すような感触さえあった。一方で、すでに落ち着きを得た『満ちみてる生』は、穏やかに、和やかに、その香りを愉しませてくれる。それからさらに、二十余年の成熟を経て、重厚な深みを湛えた『葡萄の信徒会』が生みだされる。ファンテは人生のそれぞれの段階で、そのときにしか書けない味わいを読者に提供している。父になる喜びと哀しみを、心地よい笑いと涙で包みこんだ『満ちみてる生』は、ファンテが遺した著作のなかでも、もっとも柔らかな余韻を響かせる一冊だろう。本書の刊行にあたっては、未知谷の飯島徹さん、伊藤伸恵さんに、たいへんお世話になりました。また、ファンテの熱烈な愛読者である未知谷の若き営業、藤枝大さんの存在も、訳者にとって大きな支えとなりました。ここにお礼申し上げます。二〇一四年の『デイゴ・レッド』、二〇一五年の『バンディーニ家よ、春を待て』、そして本書『満ちみてる生』と、これで三年つづけてファンテの著作を日本の読者に届けることができました。前二作に感想を寄せてくださった読者の皆さまにも、心より感謝いたします。読者から届く熱のこもった声がなければ、今回の翻訳は形になっていなかったと思います。
本訳書の底本には、一九八八年にBlack Sparrow Pressから再刊された版を用いました。現在は、eccoという出版社の版が入手可能です。
ファンテの評伝(Full of life: a biography of John Fante)によると、ファンテ自身が脚本を務めた映画Full of Lifeは、当時日本でも公開されたようです。20ただ、残念ながら邦語タイトルを突きとめることができませんでした。アメリカ本国では、Full of LifeのDVDは現在も流通しており、インターネット通販で容易に入手できます。
無頼の作家チャールズ・ブコウスキーがファンテを崇敬していたことは有名な話ですが、今年になって邦訳が刊行されたブコウスキーの作品集『ワインの染みがついたノートからの断片』(中川五郎訳、青土社)には、ファンテとブコウスキーの出会いを描いた短篇「師と出会う(I Meet The Master)」が収録されています。ご興味のある方は、ぜひご一読ください。
二〇一六年十月 静和にて
訳者識